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兵庫県教職員組合

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『ひょうご2016 こどもの詩と絵 第37集』表彰式・発刊集会開催

『ひょうご2016 こどもの詩と絵 第37集』表彰式・発刊集会開催
『ひょうご2016 こどもの詩と絵 第37集』表彰式・発刊集会開催
『ひょうご2016 こどもの詩と絵 第37集』表彰式・発刊集会開催
『ひょうご2016 こどもの詩と絵 第37集』の表彰式・発刊集会を、2017年3月5日(日)に開催しました。当日、県内各地より約850人の子どもたちや保護者の方に来ていただきました。ピアノやトランペットの演奏を聴いたり、みんなで歌ったりという、ミニコンサートをおこないました。その後、「詩」と「絵」それぞれ学年の代表者として表彰状を受け取る子どもたち、「詩」の朗読をする子どもたち、「絵」の説明をする子どもたちが舞台に上がり、晴れ晴れとした顔を見せてくれました。

兵庫県教職員組合は、多くの教職員からの「協賛金」に支えられ、「就学援助事業」、「東日本大震災・熊本地震に伴う被災地からの転入児童・生徒への就学支援」等の教育文化・社会貢献事業をおこなっています。その一つとして、『ひょうご こどもの詩と絵』の表彰式・発刊集会はおこなわれています。1979年の国際児童年を機に創刊され、今回で通巻第37集になりました。

今年度は、県内各地の教職員の協力により「詩」640点、「絵」2,010点の作品が集まりました。子どもたち自身がそれぞれの生活をみつめた作品、自然の美しさに感動して表現した作品、おとなが気付かないような発想の作品、心の葛藤を表現した作品等がありました。その作品一つひとつには、子どもたちの感性があふれています。それぞれ7人の選者の方々に、「絵」と「詩」の選考をお願いしました。多くの作品の中から、「詩」130点と「絵」245点が選ばれて、第37集に掲載されています。

作品が掲載されている子どもたちには、『こどもの詩と絵 第37集』を贈呈しています。子どもたちの感性を大切にしたこのとりくみを、今後も続けていきたいと考えています。

2016年度 社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式

2016年度 社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
2016年度 社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
2016年度 社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
寄贈式では、車椅子1台、福祉自動車2台を寄贈しました。また、児童養護施設等への支援事業では2施設に支援をおこないました。
参加者交流では、分会代表、施設代表の方から、協賛金賛同者・共催団体への感謝の言葉や施設の状況の報告などがありました。
福祉自動車の寄贈を受けた施設代表は、これまで保護者に頼っていた利用者の施設への送迎を実施できること、送迎車の不足で入所を断っていた方も受け入れ可能になることなど、福祉自動車の活用方法について喜びの言葉とともに話されました。また、児童養護施設の代表からは、施設でくらす子どもたちの様子や課題をお聞かせいただくとともに、30を超える県内の施設に対する支援への要望も受けました。
この事業を通じて、県内の障害者施設、障害児教育、児童養護施設に携わっている人々との連帯・交流を深めることができました。
障害者差別解消法の趣旨を生かし、「ともに生き、ともに学ぶ」社会、「障害者の自立」をめざして、これらの支援事業が、みなさんの生活に少しでも役立てられることを願っています。
※寄贈式の様子は、組合員専用ページに動画を掲載しています。

今後も、この事業の趣旨およびこれまでの経緯を踏まえ、兵教組の教育文化・社会貢献事業の充実と発展をめざします。引き続き皆様のご協力をお願いいたします。

勤務時間の適正化にむけて…

勤務時間の適正化にむけて…

第40回母と女性教職員の会 兵庫県集会

第40回母と女性教職員の会 兵庫県集会
第40回母と女性教職員の会 兵庫県集会
第40回母と女性教職員の会 兵庫県集会
「母と女性教職員の会」の運動は、1954年に始まりました。「わが子、教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに、子どもたちの幸せをめざし、女性がいきいきと生きられるように、そして、憲法を守るために全国各地でとりくみを続けています。

全体会では、田口奈緒さん(性暴力被害者支援センターひょうご代表)から「学校における性犯罪被害対応~今そこにある危機」と題した講演を受けました。参加者からは、
・性暴力に対し、自分や自分の身の回りで今起きるかもしれないと認識してなかったことをはずかしく思った
・性被害に遭う年齢が思った以上に低く、男子もあっていることに驚いた
・性犯罪への対応が、小学生・中学生でもあり得ること、デートDVの例を聞いて改めて感じた
・知識を身につけておくことで犯罪を防げること、ケアにつなげていけることがわかった
などの感想がありました。

分科会では、3つのテーマで討議をおこないました。
「平和と国際連帯」分科会では、「夜間中学が問うもの ~戦後夜間中学の変遷と、私が出会った生徒たち~」について問題提起を受け、討議をおこないました。夜間中学校の歴史を知り、その必要性を考えるとともに、不登校や外国籍の子どもたちのための今後のとりくみを確認しました。
「子どもの人権を考える」分科会では、「じぶん まる! ~性って誰かに決められるもの?~」と題したセクシュアルマイノリティの子どもたちの居場所づくりについて問題提起があり、討議をおこないました。「性の多様性」について具体的に聞き、考えることで、おとなが多様な視点を持つことの大切さを確かめ合うことができました。
「性別にとらわれず自分らしく生きる」分科会では、「男性養護教諭として働いてみて」について問題提起を受けました。現場での悩みや苦労とともに、子どもたちが男性養護教諭を当たり前に受け止める様子を聞き、性別ではなく「個」の大切さについて考えることができました。

「母女」は、地域のことは地域で、全国的な問題は大きく連帯してとりくむことが運動の原点です。今後も、保護者・地域の方々と教職員がともに手を携え、誰もが安心してくらせる平和な社会であるための運動を続けていきたいと思います。
集会にご協力いただいた皆様、ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

阪神・淡路大震災22年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -

阪神・淡路大震災22年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
阪神・淡路大震災22年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
阪神・淡路大震災22年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
開会にあたり、神戸市立桂木小学校合唱団のみなさんが「追悼の歌」を会場に響かせました。参加者の中には「しあわせ運べるように」や「花は咲く」などの子どもたちの美しい歌声と心をこめて歌う姿に心を動かされ、涙を浮かべる方もありました。
黙祷の後、「1・17への思い」として、泉雄一郎執行委員長と、高井芳朗教育長が、震災で得た教訓を生かしていく決意等を述べました。
メモリアルコンサートでは、芦屋支部の森洋樹さんが小学校6年生で被災した経験、祖母や友達を亡くしたことを受け止めるまでの様子や周りの人々とのかかわり、今の思いを語られました。
(※ 語りの全文は下記に掲載)
最後に、KOBE CORY BAND金管5重奏のみなさんが、「星に願いを」や「ふるさと」など、金管アンサンブル演奏を披露しました。小学生で被災したメンバーは、音楽を通して子どもたちに震災を伝えていきたいと話し、やわらかい音色を響かせました。

震災から22年。震災を「忘れない」とりくみとともに、震災を経験していない若い世代へ「伝える」とりくみがもとめられています。「追悼の夕べ」にも、震災当時の小学生や震災後に生まれたみなさんが出演し、思いを語ることが増えてきました。
兵教組は、今後も、震災を伝えるとりくみとともに、子どもたちに「生きる力」を育む教育実践、各地で発生している自然災害などにより被災した教職員や子どもたちの支援に引き続き努力していきます。


【森さんの「語り」全文】

◆22年前の1月17日
22年前の1月17日も,今日と同じ火曜日でした。その時私は小学校6年生で,ちょうど卒業に向けての準備が始まろうとしている時期でした。火曜日には,毎週楽しみにしていたクラブがあり,最後のリーグ戦が予定されていました。クラブが大好きだった私は,授業の用意と,卓球のラケットをしっかりと用意して,次の日が来るのを楽しみにして眠りについたことを覚えています。

しかし,そんな当たり前のように来る次の日は,当たり前の日常ではありませんでした。
強い揺れを感じて,すぐに目が覚めました。とっさに「地震だ!」と感じ,布団をかぶって身を守りました。地震の経験はありませんでしたが,北海道の奥尻島やアメリカのロサンゼルスで起こった地震のことは,家族や友人と話題にしていたため,心のどこかにそれが残っておりとっさに反応できたのだと思います。強い揺れの中,必死に布団をおさえていました。揺れがおさまり,気が付くと重いものがのしかかり,体を動かすことができませんでした。
当時,私は6人家族で,2階の同じ部屋で寝ていた両親と,隣の部屋で寝ていた一番上の兄,そして1階では祖母と真ん中の兄が寝ていました。両親はすぐに「大丈夫か」と声をかけてくれました。しかし,すぐ真下から,次男の「助けてくれ」という声も聞こえてきました。とにかく外に出ようということで,私もなんとか体の上の重いものから抜け出しました。周りは電気も消え真っ暗だったので何も見えませんでしたが,立ち上がった瞬間,平衡感覚が失われ,頭がクラクラする感覚を覚えました。
2階の窓から,屋根を伝って外に出ようということになり,その移動中に,剥がれた屋根の瓦に足を乗せてしまい,屋根を転がり落ちてしまいました。「屋根から落ちる!」と思い身構えた瞬間,落ちたその先は地面でした。1階で寝ているはずの次男の声がすぐ下から聞こえてきたこと,立ち上がって頭がクラクラする感覚に加え,2階から落ちたはずなのにすぐに地面があること,全ての状況が呑み込めないまま,外に脱出することができました。これは明るくなって分かったことですが,家は1階部分が潰れ,南側に倒れている状況でした。私が寝ていた部屋は斜めに傾いており,伝って降りた屋根はそのまま地面についているような状況でした。
転がり落ちた時に,顔に擦り傷を負ってしまったため,私は2軒隣の無事だったお宅で手当てをしてもらい,夜が明けて少し状況が落ち着くまでの間,その家に避難させてもらっていました。9時前に再び家に戻って変わり果てた家を見た時,愕然としたのを覚えています。両親や長男は,近所の方々に助けてもらいながら生き埋めになっている祖母と次男を救出している最中でした。その後なんとか次男はがれきの中から救出されました。祖母はさらにその奥におり,次男を助け出したところから足は見えたそうですが,間に大きな梁があり簡単には助け出せず,祖母が助け出されたのは結局11時くらいでした。助け出した時には意識はなく,病院に着いた時にはもう息がなかったそうです。祖母の遺体は,近所の付き合いのあるお宅に安置させてもらいました。
結局その日の夜は,家族でその一部屋をお借りして,祖母を囲んで過ごしました。父は近所で家屋の下敷きになっている人の救出に回っており,帰ってきたのは深夜でした。テレビで報道されている亡くなった人の数がんどん増えていくのが怖かったことを覚えています。

その後は,潰れた家屋の中から使えそうなものを出したり,トイレの水を井戸から汲んだり,必要な救援物資をもらってきたりするのが私の仕事でした。まだ子どもながら,何か自分にもできないかという思いがあったのを覚えています。先生方も,電話が通じなかったため子どもの家を一軒一軒回って訪ねてきてくださいました。抱きしめてもらったときの温かさは今でも忘れることができません。
その時に,だったかどうかは定かではありませんが,学校が再開するまでの間に,同級生も2人亡くなったということを聞いていました。2人ともクラスは違いましたが,1人は3・4年で同じクラスで,廊下で会うとよく声をかけてくれていました。もう1人は家が近くで,一緒に話しながら帰ることもありました。2人とも潰れた家屋の下敷きになり亡くなった,と聞いています。そんな2人のことを知った時には,悲しい気持ちであったはずなのに,涙は流れませんでした。祖母をはじめ,同級生や近所の方,近しい人の「死」が一気に押し寄せてきて,自分の中で心の整理が追いつかなかったのだと思います。

◆学校再開
学校が再開したのは2週間ほど経った2月2日でした。通っていた精道小学校は,地震直後から多くの方が避難され,教室も体育館も避難所になっていたため,学年ごとに一つの特別教室に集まって授業を受けました。一時転出等で県外に避難していた友だちも多く,100人くらいいた6年生は,再開の日には半分の50人ほどでした。
運動場も体育館も使えず,休み時間には体を動かして遊ぶことができませんでしたが,たくさんのボランティアの方々が遠くから励ましに来てくださいました。覚えているのは,プールに大きな紙を用意してもらって,全身絵の具まみれになって思い切り自由に絵を描いたことです。給食も材料の確保も難しい中,早期に再開をしていただきました。最初は火を使わない簡易的なものでしたが,しばらくするとプロパンガスを使って温かい給食も提供していただきました。卒業までに,一時転出していた友だちも次第に戻ってきて,少しずつこれまで通りの日常が戻ってきたことがうれしかったです。
卒業式は,運動場に建ててもらった大きなテントでおこないました。卒業式の日には一時転出していた友だちも戻ってきて,亡くなった2人とともに全員で卒業式を迎えることができました。最後の花道には,在校生と一緒に避難されている方,ボランティアの方も加わり,温かく送り出していただきました。
私の家は,がれきを撤去し簡易的な住宅を建て,そこで中学校の3年間を過ごしました。中学校でもグランドの半分に仮設住宅が建っていました。部活動はテニス部に入りましたが,歩いて30分ほどのところにある市営テニスコートを使いました。そういった不便さにも次第に慣れ,少しずつ更地にも新しい家が建ち,ひび割れた道路は修復され,震災の爪痕は見えなくなっていきました。

◆震災を受け入れる
私が,震災ともう一度向きあったのは大学生の時です。地方の大学に通ったのですが,そこで「兵庫の芦屋出身」と伝えると,「震災は大丈夫やった?」と多くの人に尋ねられました。その質問に,私が体験した話をありのままに話すことができず,どこか被害を軽く偽って答えていました。「家は全壊やったけど,家族はみんな無事で…」とか,「うちの家は無事やったけど,近所の被害は大きくて…」とか,その場その場でとっさに違うことを言っていました。自分でもなぜそんな風に答えてしまうのか分からず,戸惑いました。今振り返ると,震災のことについて尋ねられるという経験はその時が初めてで,自分が体験したことを話すということはありませんでした。街は復興して,相応の年月が経っても,自分は全く震災を受け入れることができていなかったのだと思います。

私がようやく震災を受け入れることができたと思うのは,ちょうど10年経った2005年の1月17日のことです。その日,私は大学4年で,研究室で卒業論文を書くための研究を夜遅くまでしていました。夜中の1時くらいだったでしょうか,休憩がてらインターネットを覗いてみると,震災から10年ということで,例年よりも大きく写真特集が組まれていました。高速道路が倒れている様子や長田の火災などの写真を見ているうちに,自分でもなぜか分かりませんが涙が流れてきて,止まらなくなりました。私が震災のことで泣いたのは祖母が亡くなり遺体と対面したとき以来で,同級生や近所の方が亡くなったと聞いた時にも涙は流れませんでした。その10年越しの涙に,私自身戸惑いましたが涙は止まらず,しばらくの間流れ続けました。
そこが、私が震災を受け入れられた瞬間だと思っています。それから自分の体験を,ありのままに話せるようになりました。教員になってからも,毎年その時の子どもたちに話しています。話し始めた当初は,自分の体験を分かってほしい,という思いが強すぎたのだと思います。毎年,話しても今一つ子どもたちに伝わりきっていないような感覚でした。なぜだろう,もっと伝わりやすくするためにはどんな話をすればいいだろうと悩んでいましたが,ある日を境に,考え方が変わりました。
それが東日本大震災の日です。津波の映像や,燃える町の様子をテレビを通して見ていて,現実に今,起こっているとは捉えられないほどショックな出来事でした。その時から,子どもたちにとっての阪神・淡路大震災も同じことなのかもしれないと思うようになりました。それからは,もちろん過去にどんなことがあったのかを知ってほしいという思いはありますが,それに加えて,過去を知って,今後来る災害の時に,自分の命を守るための備えや方法を考えてほしいと思いながら体験談を話しています。また,東日本大震災の後から,私が自分の体験を話すことができるようになるまで10年かかった,という話もするようにしています。今後,今の子どもたちが大人になり,東日本大震災や熊本の震災で心に傷を負った子と出会った時に,この話を思い出してほしいと思っています。

◆復興支援ボランティアとして
昨年5月,熊本県の益城町に復興支援ボランティアに行く機会をいただきました。偶然にも小学校でボランティアをすることができ,次の日から学校を再開するために,教室に入られている方に体育館に移ってもらったり,教室の清掃などの手伝いをしたりしてきました。おそらく阪神・淡路大震災の時にも,たくさんのボランティアの方に同じようにしてもらったのだろうなあと思いながら,恩返しのつもりでボランティアをおこなってきました。少しだけその学校に通う5年生と話す機会がありました。「学校が始まって,友だちと会えるのは嬉しい」と,少しだけ笑顔で話してくれましたが,心の中では大きな傷を負っているのかもしれないとかつての自分と重ねてしまいました。
阪神・淡路大震災も,2年前の20年を区切りに,記念行事や追悼行事が少なくなっている,というニュースを聞きます。でも,未だに阪神・淡路大震災を受け入れることができない方もまだまだいらっしゃると思います。区切りなんていうものではなく,これから先もずっと私はこの日に自分の体験を伝えたいと思っています。1.17で亡くなった方々のことを,語り続けていきたいと思っています。

2017年1月17日
森 洋樹

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