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兵庫県教職員組合

兵教組ニュース

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「いきる つながる みちひらく…兵教組」(活動紹介)

社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式

社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
社会貢献事業 車椅子・福祉自動車・児童養護施設支援 寄贈式
兵教組は、多くの方々からの「協賛金」に支えられ、子どもたちへの就学支援や教育文化・社会貢献事業をおこなっています。今年度も(一財)兵庫県学校厚生会、(一財)兵庫県教育会館、(公財)日本教育公務員弘済会兵庫支部に共催いただき、「福祉自動車等支援事業」「車椅子支援事業」「児童養護施設等への支援事業」をすすめてきました。

寄贈式では、車椅子3台、福祉自動車2台を寄贈しました。また、児童養護施設等への支援事業では3施設に支援をおこないました。
事業を通じて、県内の障害者施設、障害児教育に携わっている人々との連帯・交流を深めることができ、参加者交流では、児童・生徒代表、施設代表の方から、協賛金賛同者・共催団体への感謝の言葉や施設の状況の報告などがありました。
「ともに生き、ともに学ぶ」社会、「障害者の自立」をめざして、これらの支援事業が、みなさんの生活に少しでも役立てられることを願っています。寄贈式の様子は、後日、組合員専用ページに動画を掲載する予定です。

今後も、この事業の趣旨およびこれまでの経緯を踏まえ、兵教組の教育文化・社会貢献事業の充実と発展をめざします。引き続き皆様のご協力をお願いいたします。

第24回近畿ブロック母と女性教職員の会

第24回近畿ブロック母と女性教職員の会
第24回近畿ブロック母と女性教職員の会
第24回近畿ブロック母と女性教職員の会
「母と女性教職員の会」の運動は、1954年に始まりました。「わが子、教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに、子どもたちの幸せをめざし、女性がいきいきと生きられるように、そして、憲法を守るために全国各地でとりくみを続けています。

全体会の記念講演では、正井礼子さん(ウイメンズネットこうべ)より「災害時における女性と子どもの人権」と題し、阪神・淡路大震災、東日本大震災での具体的な事例をもとに、女性問題と子どもへの影響について提起を受けました。参加者からは「震災の時の女性の現実、知らないことばかりで驚きとショックを感じた」「誰かが声を上げなければという大切な話を聴けてよかった」「普段から男女の役割分担でなく、個人ができることを大切にした役割分担をするよう人権意識を高めていきたい」などの感想がありました。
「平和と国際連帯」分科会では、「慰安婦」問題や夜間中学に通う中国残留「孤児」にかかわる問題提起を受け、討議をおこないました。事実や歴史を正しく知ることの大切さ、子どもたちの生活背景に寄り添うことの大切さを確認しました。
「子どもと人権」分科会では、地域でのボランティアや里親制度、「混合名簿」などのとりくみについて問題提起があり、討議をおこないました。「性別で分けない名簿」の大切さや養護施設、里親制度について活発に討議されました。一人ひとりが自分自身のことと重ねて考え、思いや実情を出し合うことができました。
「いのちを考える」分科会では、DV被害を受けた女性と子どもたちへの支援や阪神・淡路大震災での心のケアのとりくみ、防災教育について問題提起を受け、「子どもを守る」「いのちを守る」ための各地域での実態やとりくみを交流しました。
分科会参加者からは「『母女の会』に参加して人とつながり、それが子どもたちへのとりくみのきっかけになった」「交流できたことで意識が高まりよかった」「集まって話をすることでいろんなアイデアや知恵が出てくる」という意見がありました。

今後も、保護者・教職員などそれぞれの立場で、いのちが大切にされる平和な未来をつないでいくため、運動を続けていきたいと思います。集会にご協力いただいた皆様、ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

1.17追悼の夕べ 小島汀さんの語り

1.17追悼の夕べ 小島汀さんの語り
関西大学4年生の小島汀(おじま みぎわ)と申します。私は、震災当時、父、母、4つ上の兄と芦屋市津知町に住んでいました。震災で家は全壊、父は生き埋めになり、亡くなりました。

当時は3歳だった私は、たんすの下敷きとなり約3時間後に救出されましたが、記憶はほとんどありません。すぐ近くにあった祖父の教会が無事だったということで、そこで2年間ほど避難生活を送りました。ごちゃごちゃの生活の中でも、支援に来てくださる方々がかかわってくださったおかげで、私にとっては楽しいこともありました。

私は正直に言えば、気づいたときには、父親がいないことが当たり前になっていました。しかし、小学校に行くようになり、授業参観日に自分の母親だけが来られないことがありました。父親がいない家庭を支えるため母親が働かなければならないこと、自分の父親が震災で亡くなったことを初めて意識しました。3年生くらいまで、暗い部屋で寝られない、トイレのドアを閉められないといった震災トラウマを抱えて生活しました。

ただ、私は、震災直後から、自分と同じ震災で親を亡くした境遇の仲間にあしなが育英会で出会いました。学校で友達が父親の話をするときの辛い思いを、あしなが育英会の仲間には話すことができました。この出会いがなければ、今、こうして皆さんの前で話せるようにはなっていなかったと思います。

さらに大きな出会いは、小学校6年生の担任の先生です。私の通っていた芦屋市の精道小学校では、今でも20年間追悼式を続けています。私が6年生のとき、それまで先生方が進行していた追悼式を6年生が企画・進行することになりました。総合的な学習として震災当時の様子を調べたり、黙祷や献花の意味を調べたりと学習をすすめていました。また、式の中で遺族代表のあいさつがありました。4つ上の兄も代表となっていたため、私も6年生になったら代表になるんだろうと思ってはいました。しかし、いざ、遺族代表として読む父親への手紙を書こうとしてもあまり記憶がありません。何を書いていいのか分からず、全く鉛筆がすすみませんでした。
そのとき、担任の先生や復興担当の先生が「素直な気持ちを書いていいんだよ」と声をかけてくださいました。私は、今思えば、なぜそんなことを言ってしまったのかと思いますが、「お父さんがいなくなっても私はさみしくないもん」と言ってしまいました。先生はその言葉に驚き、私の母に報告したそうです。母は私の思いをしっかりと受け止めてくれ、「それが3歳で震災を体験した汀の素直な気持ちだと思います」と伝えてくれました。先生方も震災遺児との向き合い方を熱心に考えてくれました。私の思いを共有してくれ、そばに寄り添ってくださいました。あの時、先生が問いかけてくださらなかったら、ずっと心の中に父がいない悲しみを自分の中で整理できずに抱えていたのではないかと思います。今でも精道小の追悼式に行って当時お世話になった先生方にお会いすることがありますが、背中を押してくださった先生方には、本当に感謝したいと今も思っています。

中学校に進学してからも、震災を語り継ぐ活動をしていましたが、やはり震災の記憶がない自分がもどかしく、もっと震災について知りたいと思うようになりました。そこで、高校は、全国で唯一、環境防災科のある舞子高校に進学しました。それから被災地に行くようになり、私の知らなかったところで動いてくださっていた方や今も支えてくださっている方の存在を知りました。
大学生になり、エイズで親を亡くした子どもたちの学習補助のため、ウガンダに留学することになりました。ウガンダへ出発する2週間前、東日本大震災が起こりました。自分と同じように親を亡くした子どもたちがたくさんいるのではと思いました。しかし、親を亡くした悲しみは、地震であれエイズであれ同じだと思い、そばに寄り添いたいと留学を決意しました。

戻ってから、すぐに東北の被災地へ行きました。しかし、長くて1週間しか滞在できず、そのたびに仲良くなった方々と別れがあることが悲しくなっていました。震災のとき、自分が何をしてもらって嬉しかったのか思い返すと、長期的に関わってくださる方や応援してくださる方の存在の大きさに気づきました。そして、半年間大学を休学し、石巻市雄勝町で活動することにしました。特別なことをしたわけではなく、自分がしてもらってうれしかったことをしただけです。おじいさんやおばあさんの家を訪ねて声をかけたり、お魚をいただいたり、一緒にテレビを見たりしました。子どもたちとは勉強会もしました。その中で子どもたちは「津波の前に戻りたい」「大切なものを取り返したい」といった悩みや悲しみを打ち明けてくれるようになりました。私も20年前の自分の思いや親の思いを考えるようになりました。

初めて東北に行ったときは、情景と何もできない自分にショックを受けました。自分がちっぽけだと思っていました。そんなとき、被災地の中学校の先生が、「気負わなくていいよ。あなたが来てくれるだけで、現地の子たちは元気をもらうよ。18年、19年たったら、自分たちもこんなにいきいき明るくした姿になれるんだと希望になるから大丈夫」と言われ、自分が東北に行く意味、できる限りのことをしたいと考えるようになりました。
こうした20年間の活動の中で、父親を亡くさなければなかった出会いに感謝する気持ちも大きくなりました。

震災で父親を亡くし、人の痛みや苦しみを知りましたが、それ以上に大切な人を大切に思うという当たり前のことを教えてもらいました。そして今、二度と自分と同じ思いをする人はいてほしくないという思いから、子どもたちに防災教育を伝えるボランティアをしています。防災教育とは、難しいと思われるかもしれませんが、私は、人と人とのつながりを毎日大切に大事に生きていくことだと思います。だから、子どもたちにも楽しんでもらいながら防災を伝えるようにしています。

環境防災科にすすんだおかげで、被災地に行くこともできました。そして、先輩や後輩ともつながりながら一緒に震災を伝える活動ができていることに感謝しています。

(※組合員専用ページに動画を掲載しています)

阪神・淡路大震災20年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -

阪神・淡路大震災20年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
阪神・淡路大震災20年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
阪神・淡路大震災20年 児童・生徒、教職員- 追悼の夕べ -
追悼の歌では、神戸市立桂木小学校合唱団のみなさんが、「しあわせ運べるように」など、美しい歌声を響かせました。
黙祷の後、泉雄一郎執行委員長と高井芳朗兵庫県教育長が「1.17への思い」を語り、20年の節目を迎え、これまでのとりくみを振り返りました。そして、今後も震災の経験と教訓を生かし、兵庫だからこそできる東日本など各地への継続した支援にとりくむとともに、防災文化の創造と防災教育の充実をはかっていくことを参加者とともに誓い合いました。
メモリアルコンサートでは、芦屋ユニオンアンサンブル(芦屋支部組合員)がリコーダー・鍵盤ハーモニカを演奏しました。震災当時、避難所となっていた精道小でのコンサートの様子を振り返りながら、「ふるさと」など6曲を参加者に届けました。
また、関西大学の小島汀さんから、震災で家が全壊し父を亡くした当時の様子、20年間に出会った人々、自分自身の活動、そして今の思いを語っていただきました。
最後にアンザンブル・フォーゼ(神戸支部組合員)がサクソフォーン四重奏をおこないました。中学生や大学生だった震災当時の経験、今目の前の子どもたちへの思いを語るとともに、「見上げてごらん 夜の星を」など、追悼の思いをこめた3曲を演奏しました。(組合員専用ページに動画をしています)

震災から20年。震災を「忘れない」とりくみとともに、震災を経験していない若い世代へ「伝える」とりくみがもとめられています。
兵教組は、今後も、子どもたちに「生きる力」を育む教育実践の深化・発展、自然災害などにより被災した教職員や子どもたちの支援に引き続き努力していきます。

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